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<ノベル>
花と光の季節は過ぎて、風薫り緑輝く月がやってきた。
ちょうど去年の今頃であったか、幼き神子が市民のために街を走り回ったのは。ギリアム・フーパーも神子の呼びかけに応じてとある老女の引越しの手伝いに赴いた。
市の人口はあの頃よりも減っているだろう。無理もない話だ。エキサイティングといえば聞こえは良いが、物騒な事件が頻発するこの銀幕市。“避難”したいと考える人間がいないわけがない。
それは街に対する愛着とは無関係だとギリアムは思う。あの老女のように、この街に心を残したままやむにやまれず転居して行った者も多い筈だ。
どんっ。
地震のような、しかし地震よりもよほど不吉な揺れがギリアムの回想を引き裂いた。
ざわめきが波紋のように広がる。落ち着いて、と誰かが叫んだ。この避難所の防衛を担当する市民たちが外に飛び出していく。反射的にベレッタを握り締めたギリアムの肩でココアカラーのバッキーが落ち着かなく動き回る。スターバックスと名付けられたバッキーの尻にはスチルショットのチャージャーが吸盤よろしくくっついていた。
『何が起きた!? 光が……』
手元のラジオがざりざりと砂嵐を流し始めた。不穏な雑音は他の者の耳にもはっきりと届いていた。避難所に集まった市民の多くがラジオや無線機を持ち込んでいた。
どよめきが津波のように膨れ上がる。
「落ち着いて」
ギリアムもまた叫んだ。職業柄、彼の声はよく通る。
「大丈夫。そんなにやわじゃない。外で戦っている人たちも、俺たちの希望も」
凛とした声と双眸の前で、不安とざわめきは波が引くように鎮まって行った。
(そうさ。今までだって2匹もの巨大な悪魔を退けてきたじゃないか)
楽観しているわけではない。信じている。頭上のマスティマが絶望の形だというのなら、それと同じだけの希望が存在する筈だと。
ギリアムの傍らでは妻と息子がヒュプノスの眠りに落ちている。
ギリアムはどちらの剣も使わないことを選んだが、マスティマとの決戦には赴かなかった。妻子にヒュプノスの加護を与えてもらい、戦いが終わるまで二人を守りながら起きているつもりだ。
持ち込んだラジオはほとんど役立たずになっていた。延々と流れる砂嵐、ハウリングのような不快な雑音。時折入り込む音声はひどく断片的で、戦況の手がかりにはなりそうもなかった。
(……大丈夫。いけるさ)
ガーガー騒ぎ立てるだけのラジオと睨めっこを続けていると、不意に目の前に影が落ちて来る。
無言の影法師を辿るように視線を持ち上げ、ギリアムはかすかに目を見開いた。
「ジェイク」
いつの間に現れたのだろう。ジェイク・ダーナーが相変わらずのパーカー姿でのっそりと佇んでいた。
「……フーパーさん」
目深にかぶったフードの奥から陰気な声が漏れてくる。
「おれも……ここに」
「何だって? きみは確か戦いに行くと――」
「……ここにいる」
けだるげな声音はいつものまま、ジェイクは多くを語らずにギリアムの隣に腰を下ろした。
暗色のフードに隠されたジェイクの表情は窺えない。しかしフーパー家の護衛に力を貸そうとしてくれているらしいことは分かる。ギリアムはしばし呆気に取られて彼の横顔を見つめていたが、やがて表情を緩めた。
「ありがとう。心強いよ」
「……戦えるスターが……傍に居たほうがいい」
「その言い方は正しいようで正しくない。心強いのは、ジェイク、今ここにいるのが他の誰でもないきみだからさ」
背中を丸めたジェイクは唇の端をごくごくわずかに動かしてみせただけであった。もしかすると微笑のつもりだったのかも知れない。
時折軽い揺れには見舞われるものの、危険らしい危険はなかった。ラジオも相変わらずピーピーガーガーと叫んでいるだけある。
「案外静かなものだ」
「……眠っている人も、多いから」
「それはある。小さな子供が起きていたらこうはいかない」
ヒュプノスの加護を受けて眠っているのはギリアムの妻子ばかりではなかった。この避難所に身を寄せる子供たちのほとんどが眠っている。我が子を抱いて一緒に眠る母親の姿もあった。
スチルショットを傍らに置き、ベレッタをベルトに差し込んだままギリアムはスープをすすっていた。市内各所に配備されている炊き出し班はこの避難所でも腕をふるってくれている。何の変哲もないスープだが、この温かさが今はありがたい。
一方、ジェイクはもそもそとパンをかじっていた。バターもジャムもつけないただのコッペパンだ。
ギリアムはふと微笑んだ。
「ホットドッグが懐かしくなりそうなパンだね」
「ああ……」
「あと少しの辛抱さ。すぐにまた食べられるようになる」
「……ああ」
「そういえば、あの時も――」
ジェイクが殺人犯と疑われた時も彼はホットドッグを食べた。しかしギリアムはそれを終わりまで口にせずに言葉を切った。あの事件の顛末はジェイクにとって心地良い思い出ではないだろう。
「……そうだ。アメリカンのブラックも……一緒に」
しかしジェイクは特に気にした様子もなく答えた。ぼそぼそとした喋り方も愛想のなさもいつものことだ。
『――……て……ェ……!』
ざざざ、ばりばりばり。
ラジオに一瞬だけ紛れ込んだ声はすぐに砂嵐に掻き消されてしまった。「撃て」という号令のようにも、「やめて」という絶叫のようにも聞こえた。
低い低い、地の底から湧き上がるような不気味な声が這いずってきたような気がした。しかしそれは単なる錯覚だった筈だ。あの絶望の化身は地底ではなく天空に君臨している。
「きみはよく広場のワゴンでホットドッグを買っているそうだね」
「ああ……ホットドッグはあそこのがいい」
「マスタードをたっぷり乗せて、だろう? 考えただけで唾液が出てしまいそうだ」
ギリアムもジェイクも決して呑気に構えているわけではなかった。だが、沈んだまま黙りこくっていたところで事態が好転するわけでもない。
「そういえば初めて会った時も一緒に食べたな、ホットドッグ」
ホットドッグの話題がきっかけになったのだろうか、がなり立てるラジオの前で二人は静かに思い出話を始めた。
『……くそ……――か、……い……』
戦況は未だ判明しない。
初めてギリアムと出会った時のことをジェイクは今も鮮明に覚えている。
俳優であるギリアムはジェイクの映画にも出演していた。ジェイクに殺される刑事の役として。
だからだろう、ギリアムはあの時、ジェイクのことを「ジェイク」ではない名前で呼んだ。
「……ちがう……」
ジェイクはぼそりと、しかしはっきりと“それ”を否定した。もうその名前で呼ばれるつもりはなかった。
不完全な夢の魔法によって生を得たジェイクはこの街に夢を求めた。普通のティーンエイジャーと同じように学校に通い、アルバイトをして、アパートの一室で暮らす。元居た世界では叶わなかったそんな夢がこの街ではひどくあっさり実現した。
この街が、ギリアムがそれを用意してくれた。ギリアムはジェイクを信じてくれた。
「去年の夏のハザード、あれはエキサイティングでスリリングだったな。お弁当が駄目になってしまったのは残念だったが」
ギリアムは今もジェイクの隣で笑っている。
ジェイクはいつものようにぼそりと相槌を打ち、より深くフードをかぶり直した。身に着けたパーカーよりも濃い色の影に顔を隠したジェイクの傍でギリアムは相変わらず微笑んでいる。
ギリアムがいなければ今の自分はない。だが、彼の笑顔があまりに眩しいことも確かだった。
『……さ……――れ……』
ラジオは相変わらず意味をなさない音声の破片ばかりを拾っている。
時間だけが淡々と流れ、ギリアムとジェイクもまた静かに言葉を交わし続けていた。避難所も思いのほか平穏だった。しかしギリアムはベレッタを携えたままだったし、スチルショットもいつでも使えるように準備されていた。ジェイクは手ぶらだが、彼は必要とあらばどこからともなく得物を取り出せる身だ。
会話は時折途切れた。その度にギリアムは避難所の天井を見上げ、ジェイクもつられるように頭上を仰いだ。そうしたところで戦況が把握できるわけもないが、半ば無意識の行動だったのだろう。
この場所からマスティマの姿を透視することはできない。流されている筈の血も、飛び交っているであろう怒号や喊声も、ヘリや銃火器の音も。
だが、死闘は確かに、今この瞬間に繰り広げられている筈なのだ。
ギリアムは家族の傍に居ることを選んだ。前線での迎撃を恐れたわけではない。家族の一番近くで体を張ることがギリアムの戦いだった。
「……もうじき……終わるんだろうな」
やがてジェイクがぼそりとひとりごちた。
「そうだね。勝っても負けても……そろそろ“最後”なんだ」
ジェイクは答えない。だが、ギリアムの言葉を否定するつもりもないようだった。
夢の終わりが近いことを皆が感じている。魔法が消えた後、ギリアムは銀幕市から引っ越すつもりでいた。元々、少し前から仕事と家族のために転居を検討していたのだ。
それでもギリアムは銀幕市を愛している。昨年転居して行ったあの老女と同じように。
「最後が……近いから」
ふつりと落とされた呟きがギリアムの物思いを中断させた。
傍らのジェイクの表情はいつものようにフードに阻まれ、読み取れない。
「だから、おれは……ここに」
「ジェイク――」
ギリアムが口を開きかけた時だった。
急に静寂が訪れた、気がした。
奇妙な静けさだ。まるで地上からすべての生き物が消え失せてしまったかのような。
「嵐の前の……ということではないだろうな?」
ギリアムの声は落ち着いていたが、大きな手はベレッタをしっかりと握り締めている。ジェイクは息を詰めて周囲の気配をうかがっていた。
ラジオは相変わらず砂嵐を流すだけ。落ち着かないざわめきがさわさわと避難所を満たしていく。
キィン――とマイクのハウリング音のようなものが頭上で響いた。
『マルパス・ダライェルより、銀幕市民へ』
ざわり、とどよめきが波立つ。
終わったのか。結果は。
『マスティマおよびネガティヴパワーの完全な消滅を確認した――』
被害は決して小さくはないこと、我々の勝利であること。それらを静かに告げた後、黒衣の司令官は労いと感謝の言葉を述べて放送を終えた。
避難所が水を打ったように静まり返る。
「……勝った……?」
誰かが呟き、やや遅れて安堵の声と溜息が広がった。
ギリアムもジェイクも黙っていた。ギリアムはジェイクの肩を抱き、ジェイクはギリアムにされるがままになっていた。
マスティマから解放された空は綺麗な橙色に染まっていた。
ヒュプノスの加護によって眠りについていた人々が次々に目覚め、起き上がる。ギリアムは寝ぼけ眼の妻と息子を抱擁して戦いの終わりを告げた。
ジェイクはその姿を静かに見届けて外に出たが、すぐにギリアムが追って来た。
「ジェイク。ありがとう」
手を握って感謝の言葉を繰り返すギリアムからジェイクは半ば無意識に目を逸らした。
「おれは……何も、していない。座っていただけだ……」
「ずっと一緒に居てくれたじゃないか。言っただろう、きみが居てくれて心強かったと。今度お礼をさせてくれ」
「お礼……なんて」
「遠慮することはないよ」
「……だけど」
礼ならジェイクがするべきなのに。何万回“ありがとう”と言ってもギリアムへの感謝は伝えきれないのに。
その心情を読み取ったのかどうか、ギリアムはぽんぽんとジェイクの肩を叩いてもう一度微笑んだ。
「じゃあ、きみのお気に入りのやつをおごらせてくれ。あの広場のワゴンにホットドッグを食べに行こう。もちろんマスタードはたっぷりだ」
市が受けた被害は小さくない。あのワゴンがすぐに営業を再開できるかどうかも分からない。その時まで魔法が続くかどうかも。
それでもこれは約束だ。恐らく、最後の。
「……分かった」
ジェイクはためらいがちにギリアムの手を握り返した。
「フーパーさん……」
「何だい、ジェイク」
ジェイク。この街で得た知己は皆ジェイクをその名で呼んでくれる。
「……ありがとう」
ジェイクは目を伏せていたから、そう告げた瞬間にギリアムがどんな顔をしたのかは分からなかった。
「それはこちらの台詞だよ」
だが、ギリアムはいつものように陽気に笑って再びジェイクの肩を抱いてくれた。
ジェイクは答えなかった。夕焼けを背負ってフードをかぶったままの彼の表情はギリアムにも読み取れなかっただろう。
だが、ジェイクはごくごくわずかに、しかし確かに唇の端を動かしてみせたのだった。
(了)
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クリエイターコメント | お初にお目にかかります、宮本ぽちでございます。 この度はご指名ありがとうございました。
…ええと。 どうでしょう。結構捏造してしまいました、が。 ホットドッグを強調しすぎでしょうか(汗)。 ほんの他愛のない約束でも今の銀幕市では切なく感じられるものですね。
楽しんでいただければ幸いです。 素敵なオファーをありがとうございました。 |
公開日時 | 2009-06-10(水) 18:30 |
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